【法の記号が除外された教え】
世の人々は, このことを知らない。
だから,口から先に生まれたような百千万言の論師(戯論派
(ケ
ロンパ)
)が,世にはびこり,仏陀の教(仏教)を食いものにし,世の
人々を食いものにするのだ。
正法!正法!と叫び,妙法!妙法!と叫ぶ者は多い。だが彼ら
は,【正法】(妙法)は【記号】で示されたことを知らない。
<法の重要なしるし>と訳されており,漢訳経典では<法相>
と訳される。
仏陀を食いものにし,人々を食いものにせんとした大悪人(大魔
僧)がこれを次のように改めた。
そして<正法像似><像似正法>と漢訳された。
『正法(妙法)は人の象
(カタチ)
に似た記号なり』
『正法(妙法)の記号は人の象に似たり』
この金言を世に明らかにすることは,わが国の“仏教と称する
もの”を根底から崩壊せしめることになるのだ。それほどに威力あ
る金言なのだ。仏教の教主“釈迦牟尼世尊の叫び”なのだ。
その<人の象に似たる記号>を世に明らかにすることは,我が国
の仏教の歴史(宗派仏教の歴史)を根底から崩壊せしめることにな
り,“まことの仏教”を復興することになるのだ。
著名な仏教学者(宗教学者)の発言が,《中外日報》(宗教新聞)
に次のように報じられた。
なかなかに配慮した発言だ。
“賞味期限が来た食品は買ってはいけませんよ”と云うことなの
だ。いままでの仏教は,およしなさい,と云うことである。
正法(妙法)は人の象に似たる記号で示される。
“百千万言を語れども,正法(妙法)すなわち人の象に似たる記
号を説かざるかぎり,その者は多くの偽りを語った者にすぎず”
漢訳は<離諸法相>である。
<諸>に該当
(ガイトウ)
する梵語はない。
<除外されたる><除去されたる><離されたる>
<棄
(ス)
てられたる><を欠いたる><抜いたる><放棄
されたる>
<除外されたる法の記号>
<放棄されたる法の記号>
<法の記号を欠いたる>
<法の記号を抜いたる>
教主 ・ 釈迦牟尼世尊が,正法(妙法)の記号の教師であれば,そ
の弟子も,及ばずと云えども,正法(妙法)の記号の教師でなけれ
ばならない。
このようなことは中学生でもワカルコトだ。
<日蓮><最澄><空海><栄西><白隠><道元><法然>
<親鸞>等々の,高僧 ・ 大師と讃えられた方々が“正法の記号の
教師”でなかったならば,“仏陀の弟子”ではないことになる。
仏陀 ・ 釈尊は,そのような者を弟子とお認めにならない。
教主 ・ 仏陀に弟子と認められない者が,教主 ・ 仏陀を崇めること
が出来ようか。
“正法の記号を無上の宝と信 ・ 解しない者の布施も,合掌も,仏
陀はこれを受けず”
そのような者は,仏陀に布施をする資格もなく,仏陀に合掌する
資格も無い。
人々は“合掌の意味”さえも知らないのだ。
このような<無明人><無明坊主>が,仏陀の教えを教化
(ゲ)
できようか。
仏陀(如来)の弟子がしなければならない事の第一は,
字で書かれた経文 ・ 経典を写すことではない!
仏陀(如来)の弟子がしなければならない事の第二は,
仏陀(如来)の弟子がしなければならない事の第三は,
謹んで,経(法の記号)を写して,それを死者にお供えし,それ
を生者に施すこと。この三条件をみたさない者は,仏陀の弟子とは
申さない。なかなかに第三の条件(施し)は出来にくいが,第一と
第二は,誰れでも出来ることだ。
第三(施し,与えること)が出来ない者は,第一と第二をもって,
そのうめあわせをすればよい。
“唯一なるものを,眞の導師は,多くの別言をもって,くり返し
説く”
“唯一なるものは,多くの別言をもつ”
この勢力がニセ大乘をデッチあげたのだ。
この罪を,人間が犯す罪のなかの“最大の罪”と云う。
正法の記号を悪しざまに申し,正法の記号を否定することは,仏
陀(如来)を悪しざまに云うことであり,最高神を悪しざまに云う
ことになる。
正法の記号を抹消することは,仏陀(如来)を抹殺することに他
ならない。
これを大罪と云わずして,何を大罪と云うのか。
釈尊は,正法の記号を人々に“無上の宝”と信解
(シンゲ)
せしめ
んがために,苦心 ・ 苦労をされた方なのだ。
“信じ難く,解
(ゲ)
し難きは正法の記号なり”
仏陀の門を<難信 ・ 難解 ・ 難受持の門>と申す。
“タマシイの汚れ多き者は,神縁仏慮に遠き者”
眞摯
(シンシ)
に求めざる者を拒
(コバ)
む。
眞摯に求めざる者を相手にするほど,倭成はヒマ人ではない。
これが“朝に道を聞かば,夕に死すとも可なり”と伝えられたり。