【宗旨がたまり】
(宗派がたまり) |
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飲光慈雲(オンコウジウン)(1718〜1804年)のよく知られた言葉がある。《仏教 |
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名言辞典》(奈良康明編著)p.780に載っておる。解説者は福田孝雄
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駒澤大学講師(平成元年十月現在)である。以下に全文を転記す。 |
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宗旨(シュウシ)がたまりは,地獄に堕(ダ)するの種子(シュジ)。 |
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祖師びいきは,慧眼(エゲン)を瞎(カツ)するの毒薬。 |
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【福田講師の解釈】 |
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融通性のない宗派的エゴは地獄に堕(オチ)る原因(種)(タネ)であり, |
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自己の宗派の開祖のみを尊しとするような態度は,ものごと |
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の道理を見通す知恵の目(マナコ)を見えなくする毒薬のようなものだ。 |
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【福田講師の解説】 |
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日本の仏教の特質は<宗派>と言う形態をとって,それ |
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ぞれが,教線拡張(キョウセンカクチョウ)(倭成は縄張り争いと云う)にしのぎを |
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教的支配権を掌握しようとした,ということであると言える。 |
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宗教的信念に燃えて旧仏教(奈良仏教 ・ 京都仏教)の弊害(ヘイガイ) |
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を徹底的に批判し,眞の宗教的生命の回復と活力を,仏教に |
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与えんとして立ち上がった人々の時代は,鎌倉時代に代表さ |
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れる。 |
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しかし,時代とともに,その新宗教運動も,革新の情熱も, |
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“宗派的エゴ”の中に埋没(マイボツ)していった。 |
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<慈雲>は眞言宗の僧であったが,儒教 ・ 朱子学 ・ 漢詩文 |
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を学び,禅や戒律を研究し,正法律の開祖となった。 |
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また<梵語学>を攻究し,その教養は各分野に及んだ。 |
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その彼が,当時の仏教の形態を批判したのが, |
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<宗旨がたまりは,地獄に堕(オチ)るの種子> |
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<祖師(宗派の開祖)びいきは,慧眼(エゲン)を瞎(カツ)(害)するの毒薬> |
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である。 |
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彼(慈雲)は, |
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「今時(イマドキ)の僧徒の多くは,高慢
・ 偏執(ヘンシツ)にて,我が開祖(宗派の |
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祖)は,仏陀 ・ 菩薩の化身(ケジン)……
我が宗派の開祖は,不思議な |
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神力ありと説いて,愚かで痴(シ)れ者(無知な男女たち)を誑(タブラ)か |
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しておる。 |
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眞正の仏法を求めんと欲せば,仏陀在世を本(モト)とすべし。仏 |
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陀在世には,今のような宗旨(宗派)はなかりき。」 |
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と説き,<宗派仏教>を排し,原点回帰(教主釈尊に帰れ!) |
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を志向した。 |
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倭成が申す。この慈雲の叫びはごくごく当然な叫び ・ 主張であっ |
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て,このようなことに気づかない者が多いと云うことに驚かされる。 |
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仏教とは<仏陀釈尊の教え>であることは申すまでもない。 |
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日蓮が仏陀 ・ 如来であれば,日蓮の教えにこりかたまればよい。 |
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それはよいことだ。 |
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法然 ・ 親鸞が仏陀 ・ 如来であれば,法然 ・ 親鸞にこりかたまれば |
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よい。それはよいことだ。 |
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最澄 ・ 空海が仏陀 ・ 如来であれば,最澄 ・ 空海にこりかたまれば |
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よい。それはよいことだ。 |
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栄西 ・ 白隠や道元が仏陀 ・ 如来であれば,栄西 ・ 白隠や道元にこ |
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りかたまればよい。それはよいことだ。 |
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だが,彼らは仏陀でも如来でもない。彼らは全員“合掌する者” |
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だ。“僧”なのだ。 |
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仏陀 ・ 如来は“合掌しない者”なのだ。 |
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仏陀 ・ 如来は左右の手で<如来印>を示す存在なのだ。如来印 |
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は<合掌印>ではないのだ。 |
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彼らはただの一人も<如来の隻手(セキシュ)(右手)の音声(オンジョウ)を聴いた |
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ことが無い者>なのだ。 |
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<日蓮><法然><親鸞><最澄><空海><栄西 ・ 白隠> |
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<道元>等々の大師 ・ 高僧たちは,だれもが“余(ワレ)は僧なり”と云 |
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っておる。“余(ワレ)は僧なり”と云うことは,“余(ワレ)は仏陀
・ 如来ではな |
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い!”と云うことなのだ。 |
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仏教の教主 ・ 釈迦牟尼世尊を“僧”とは申さず。 |
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“僧”は如来(仏陀)の弟子を云う。 |
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弟子のなかにも,如来の隻手(右手)の音声を聴いた弟子と,聴 |
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いたことが無い弟子があるのだ。 |
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上掲の日蓮以下の者たちは“如来の隻手(右手)の音声”を聴い |
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たことが無い者たちなのだ。 |
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“如来の隻手の音声”を聴いたことが無い者は,如来(仏陀)の |
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教えを知らない者なのだ。 |
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仏陀(如来)の隻手(右手)の音声を聴いたことが無い者は,仏 |
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陀(如来)の教えを知らない者なのだ。その仏陀(如来)の隻手 |
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(右手)の音声を聴かない者(仏陀の教えを知らない者)が,高慢 ・ |
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不遜にも<宗派>を開いたのだ。 |
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上掲の日蓮以下の者たちが,如来(仏陀)の隻手の音声を聴いた |
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者であれば,その説くところ,その教えるところは“全く一致”す |
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るのだ。 |
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“如来(仏陀)の教えは,隻手(右手)の音声に出づ” |
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隻手(右手)の音声を教えんがために左手の印があるのだ。右手 |
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が上(先),左手が下(後)なり。 |
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<慈雲>を讃える動きが,最近起こって来たようだが,<慈雲> |
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は教主 ・ 仏陀に帰れ!と叫んで,それには<梵語>をマスター |
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しなければならないと考えて,梵語の研究をしたようだが,それも |
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“大きな誤り”なのだ。 |
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<梵語>をマスターすれば,仏陀の教えがワカルであろうなど |
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は,錯覚にすぎない。仏陀の教えが覚(ワカ)った者が,梵語を活用して, |
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仏陀の教えを人々にワカラセルのだ。本末顛倒(ホンマツテントウ)とはこのこと |
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なり。 |
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仏陀(如来)の教えに帰ると云うことは,如来の隻手の音声を知 |
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ることなのだ。 |
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梵語をマスターして,現存するすべての梵語で書かれた経文を読 |
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破したとて,如来の隻手(右手)の音声は載っていない! |
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これを“帰りたくても帰れない”と申すのだ。 |
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“教主 ・ 仏陀 ・ 釈尊に帰れ!”などは,すこし頭がまともな者で |
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あれば,誰でも叫ぶことだ。 |
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問題は,叫んだとて,帰れない!と云うことだ。 |
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倭成が慈雲に申す。 |
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“そなたの叫びは正しい。だが,仏陀に帰ることは,もはや不可 |
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能である。ただ,そなたが仏陀に成る以外には。そなたが仏陀にな |
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れば,隻手の音声を聴くことが出来る” |
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倭成は,その音声(オンジョウ)を聴いた者なのだ。 |
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“如来の明門は天の五音に出(イ)づ” |
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如来の教えは,隻手(右手)の五音に出(イ)づ。 |
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如来の教えの原点は,天の五音(隻手の音声)にあり。 |
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如来の左の手印は,前掲の右側の記号を表わす。 |
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右側の記号を“天津法図(アマツノリト)の太法図(フトノリト)”と申す。 |
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右の手印は“天津宣詞(アマツノリコト)の太宣詞(フトノリコト)”(太言霊(フトコトタマ)と |
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申す)を表わす。 |
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太法図は太言霊を離れず。左右の手が離れざるが如し。 |
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教主 ・ 釈迦牟尼世尊にお尋ねすればよい。 |
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上記の日蓮以下の方々を,教主 ・ 釈迦牟尼の弟子と認められるか |
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否かを。 |
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釈尊のお答えは, |
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“余(ワレ)が示したる隻手の音声を心得ざる者は,余(ワレ)の眞弟子とは認め |
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ず”である。 |
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南インド出身の“第二の釈迦” “大乗仏教の大成者”と崇められ |
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ておる【龍樹】(龍猛とも云う)なる者は,如来の眞弟子でありま |
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しょうか? |
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そのお答えは<No!>である。 |
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“如来の隻手の音声を心得ざる者なり。余(ワレ)の眞弟子にあらず” |
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如来の隻手(右手)の音声を次のように申す。 |
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※輝ける太陽のような女神とは<天照大御神>(大日女尊(オオヒルメノミコト)) |
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のことなり。 |
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その時は,梵語(ボンゴ)のボの字も知らなかった。仏教の経文の一巻すら |
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も読んだことが無かった。仏教に関する知識は,ほとんどなかった。 |
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新約聖書も読んだことが無かった。キリスト教の知識も,ほとん |
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ど無かった。 |
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天照大御神に関する知識も,ほとんど無かった。 |
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儒教 ・ 道教の書も読んだことが無かった。 |
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哲学書も一巻も読んだことが無かった。だから,ピラゴラス聖 ・ |
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ソクラテス聖に関する知識も無かった。 |
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多少の書物を読んだにすぎないのだ。 |
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そして<太法図>を顕現することを得たり。 |
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左右の手印が揃ったのだ。 |
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“如来の成道印”を最高神から許されたのだ。満42才の誕生日 |
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であった。 |
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白隠(江戸時代の臨済宗の僧 ・ 臨済宗の中興の祖と云われる。京 |
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都の妙心寺の第一座)は<隻手の音声を聞け!>と云った。 |
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<如来の>が欠落しておる。 |
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隻手(片手)では音は出ない。両手を打って音が出る。その |
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音は誰でも聞くことが出来る。隻手(片手)では音は出ない。 |
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その音なき音を,声なき声を聞くことヂャ! |
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無知の人々は,これに誑(タブラ)かされるのだ。 |
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釈迦如来(釈迦仏)が講演をなされたとき,必ず,右手を上 |
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方にあげ,聴衆の方に手のひらを見せて説法なされたのだ。 |
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仏像をみられよ。右手を上にして,手のひらを聴衆の方に向 |
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けておられる。その隻手は<五本の指(ユビ)>だ。 |
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<五本の指>は<五妙音>を意味するのだ。 |
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余(ワレ)は如来なるぞ!これぞ如来の教えなりと示し給うたのだ。 |
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